当院では、鍼灸に携わる上で
己や世間と向き合い悩む様を
禅問答のようにやり取りすることがあります。
その中で興味深い問答があれば御紹介していこうかと思います。
「なんでしょうか、最近
”無駄を除く、省く、嫌い、純粋に綺麗に仕上げる”
というようなニュアンスに違和感を感じて止みません。
世の中そんな小綺麗に分別できないんじゃないですか?
邪も正気や思いや祈り、悲しみや怒りも色んなものを
全部ごちゃ混ぜにした上で消化してなんぼな気がします。
混沌の中から光輝くものを紡ぎ出したらええやないのと。
『北風と太陽』というイソップ寓話があるんですが
北風と太陽のどちらが旅人のコートを脱がせられるか?という話で、
北風は強く旅人のコートを脱げるように吹き付けますが
かえって旅人はコートのボタンをしっかりかけてしまいます。
逆に太陽は優しく暖かな光を注ぐことで旅人は自らコートを脱ぎました。
治療においても
邪気を邪魔物だ!と、
悪者と決めつけて叩くような主張だと反って動き辛く、
逆に、邪を一定受け入れた上で
優しく解く方が邪は動きやすくなるのではないかと。
実際、体調が良い時の記憶が頭や体を支配し、
早くこの悪い状態を治して!と頑と主張する人は治りが悪く
しんどくて辛い状態でも、しっかり受け入れた (開き直った)上で
治したいと思っている方は治しやすかったりします。
ここで言いたいのは
無駄を除く、省く、嫌うのではなく
一定認め 受け入れた上で何ができるのか?
考察し案を紡ぎ出すことに意義を感じます。
そもそも無駄なことってあるのでしょうか?」
「邪をここで一度、正しからざる流れと言うと、
その正しからざるものに対して、
キミなら一度話を聞いて、受け入れて正すということであろう。
一人の武将がよからぬ城内を統治するのと一緒であって、
為沢君のように、理解して、聞いて、統治する方法もあろう。
控えよ!と一喝して統治するものもあろう。
笑って知らぬ間に治める方法もあろう。
俺は、一人でいるときに祈りつづけて想いを練って届けて
言葉にせず、鍼や刀を通し示し、比喩を用いて相手の動作を正すように見せて
良からざるもの、直接対さずにして治めるのを得意とするが、
いわゆる個々の特性において多様な方法がある。
それを相手に示し伝える根本は手法にあるのではなく、
徳にこそあるのだと思う。
この徳というのは道徳社会における狭義の徳ではなく、
あまねく包む、太極、気一元なるものそのものの太徳である。
と考える。
ありがとうございます。
仰る通り、一旦引き込むのは一つの手段であって
全てそれでまかり通るとは思わないですが、
正義 対 悪のような二極化して考える
昨今の世の中の流れから、治療家も影響を受け
邪正の去来を 叩くか守るかの二極化していないか?
と危惧した中で思っていたことを書いてみました。
徳という概念について考えてみます。