※本記事の「補瀉についての表現における考察」は、
下記のM先生が独自に発見・考察されたものでは
ないのではないかとの御指摘を受けました。
凌耀星主編 『難経校注』人民衛生出版社 1991年2月 第1版にて、
この七十六難では、「取、猶受也」とあり、
後に八木素萌先生が「取、聚」と解釈されたものです。
本記事の考察は、八木素萌先生の解釈がもとになっています。
大原です。
学生時代の本や書類の片付けをしていると、
卒業時に配布された学校の会誌に
ふと目が止まりました。
そこには、お世話になった
鍼灸の先生(以下、M先生)が、
投稿された文章が掲載されていました。
その投稿文の内容は、
難経七十六難についてです。
難経七十六難では、
鍼における「補瀉」とはどのようなものなのか
について書かれています。
難経七十六難の一部を抜粋すると、
当に補うべきの時、何れの所より気を取り、
当に瀉すべきの時、何れの所より気を置くや。
訳:(難経の研究 医道の日本社より)
補瀉とは如何なる意味か、
又、補法は何れの所から気を取り入れ、其の不足の所を補い満たすのであるか、
又、瀉法とは、何れの所より有余の気を抜き去るのであるか。
つまりこれは、「補法はどうやって気を取り入れるのか、
瀉法は、どうやってその余りの気を出すのか」
という問いかけの文章です。
(この後、その方法についての記述が続きます。)
この文章で気になるのは、
補法であるのに「気を取り」という表現、
瀉法については「気を置く」という表現が
使われていることです。
気を補う、とか、気を取り去る、というような
分かりやすい表現ではないところが引っかかります。
M先生の投稿文には、
「取」という文字は、「聚」、すなわち「集める」という文字の
称略形として用いる例がある。
この七十六難の「取」も、「聚」の省略形として、
「気を集める」という意味で用いられているとすると矛盾しない。
また、「置」は、昔の中国で囚人を野原に「置き去り」にすること、
すなわち「放つこと」とする文例がある。
この七十六難の「置く」は、「放つ」ということはないか。
とありました。
すなわち、補は集める(聚める)、瀉は放つ、
ということになるようです。
古典の表現というのは、
わざと難しく書かれているのでは?
と思うこともあり、
M先生もその投稿文の中で「わざと難しく表現しているふしがある」と
述べられていました。
ですが、今回の難経の内容にみられるように、
古人は、何か意味があって、
わざと難しい表現にしていることがあるのだなあ、と感じました。
表現一つひとつに「なぜこうなのか」と考えていくことは
時間やエネルギーもかかり大変ですが、
古人の考えを感じ取るのに、
必要なことなのかも知れません。
参考文献:
『難経の研究』 医道の日本社
*画像や文献に関して、ご興味がおありの方は
ぜひ参考文献を読んでみて下さい。
大原
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