少し前まで日本で
誰かが特定の相手に殺される可能性を宣言され、
それが実行されるなんて自体は
想像も出来なかったが、
ここ数日で、
最初は驚くものの、数日でその事態を
少なくとも誰しもがなんらかの形で受け入れ
始めている。
受け入れるという書き方は語弊があるかもしれないが、
初めてそのようなニュースを聞いた瞬間よりも
確実に事態を受け入れる素地を心の内に
少なからず 形成しているように写らないでしょうか。
人間の適応能力はすごいもので、
どのような、想像を絶するような事象にも
適応するようだと経験をもってそのように知っています。
僕は震災時に、宝塚にいたので被災しました。
考えてみて下さい。
平穏な日常で生きている場合、
何かが起こって、建物が崩壊していて、
そこにブルーシートで覆ってあった場合、
目を背けたくもなるだろうし、
負傷者がいないか、無事なのか、
何があったのか確認しなくては安心を得ないと思う。
しかし、それが方々で起こった時、
それがまるでその町にもともとあった風景のように思え、
受け入れ、その状況の中、自分はどのように
自分の抱えている問題に処するべきかという発想に置き換えられる。
生きていくために、自分の視線と足はそこに向けられる。
これは自分の意図とは関係なく、半ば強制的に
しかも、短時間にして行われる。
僕だけで無く、いつも口角が緩んでいるのではないかと
疑われるものにも同様にそのような変化を見た。
確実に見た。
これは人の習性なのかもしれない。
環境が人を決定づける。
環境が人を上書きする。
ここに人格、個性は無力である。
この教訓のもとに、
今の状況を考えますよ。
知りもしない誰かの生死を驚きます。
そして、その流れで当然のように
大事な者達の平穏を脅かす危険を懸念し、
あなたは、それを守る為のほんの少しの準備を整え、
そして、若干の時とともに、
その者達を守る為の行動が知らぬ間に日常の一部になったとき、
音も無く、
それは戦時下と呼ばれる状況に僕らが
気付かぬまま陥ってしまっている。
そのような事が起こる可能性があるのではないでしょうか。
戦争が起こるとは、
そのようなものなのかもしれないと
思ってしまっている。ここ数日で。
誰かが、今から戦争を起こしますとスイッチを押すのでは無く、
日常がいつのまにか戦時下に置かれて初めて気付くと。
これは本当に恐ろしいことです。
そんな臭いがここ数日で、時に一瞬一瞬するんですね。
それ以上はうまく書けません。
また、例の如く殴り書きで筆を止めずに
起こしました。文章として体をなしていない
箇所が恐らく多くありますが、
消えぬ前に鮮度を失わないように残しておきました。
お許し下さいませ。