どうも、新川です。
今回は、
前回に引き続き
吉益東洞に関しての記事です。
前回の記事はこちらです。
【東洋医学史】古方派について 第六
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今回は、東洞の治療の理念
について綴って参ります。
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吉益東洞
『毒薬を与えて患者が死亡することもある。
しかし、それは薬によるものではない。
そもそも、生死は天が司るところであって、
人間の思惟の及ばぬことである。
従って医者は「生死は知らぬ」と心に決めて、
生死の事は天に任せ、
ひたすら疾病の治療に最善を尽くせばよい。
これを「人事を尽くして天命を待つ」というのである。
毒薬を用いて毒を攻めるのであるから、
その治療過程で激しい反応が見られる。
これを瞑眩(メンゲン)と言う。
古人も
「薬を与えて瞑眩が見られないようでは、その病気は治らない」
と言っている。
この瞑眩を恐れていては疾医の道は獲得できない。』
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『吉益東洞の研究 日本漢方創造の思想』の記述によると、
これらの過激な発言の裏側に、
当時国内で不治の病とされていた『梅毒』の存在があるという説が挙げられている。
梅毒
病原体は梅毒トレポネ−マで、螺旋状菌の一種。
この菌の特徴として、
低酸素でしか長く生存できないため、
感染経路は限定される。
多くの感染源は、菌を排出している感染者との
性行為、疑似性行為によるものである。
これ以外には、輸血感染、母子感染があげられる。
1928年フレミングによってペニシリンが発見され、
その後1940年頃から普及して以降は感染数が激減したが、
各国で幾度かの再流行が確認されている。
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東洞の没年が1773年なので、
梅毒の治療が普及するまで彼の死後から150年以上先の話となる。
最後に
杉田玄白(1733〜1817)の
『形影夜話』を掲載する。
『とかくするうちに、年々名ばかりむなしく高くなり、
患者は日々月々多くなり、毎年千人あまり治療するが、
そのうち七、八百は梅毒患者である。
こんなことをして、
四、五十の月日がたったから、
梅毒患者をとりあつかった数は数万にもなろう。
それだのに、
今年七十歳という年になるが、まだ完全な治療法がわからない。
これは患者のつつしみがないためか、それとも、私の治療が下手なのか、
とにかく、ますますこの病気は難治のものだということを知っただけのことで、
わかいころからすこしも進歩していない。』
<参考文献>
『日本医療史』 吉川弘文館
『鍼灸医学事典』 医道の日本社
『中医基本用語辞典』 東洋学術出版社
『図説 東洋医学〈基礎篇〉』 学習研究社
『建殊録』農山漁村文化協会
『東洞全集』思文閣
『吉益東洞「古書医言」の研究』汲古書院
『吉益東洞の研究 日本漢方創造の思想』岩波書店
※画像や文献に関して、ご興味がおありの方は
是非参考文献を読んでみて下さい。
新川