曲則全、枉則直、窪則盈、
弊則新、少則得、多則惑。


是以聖人抱一爲天下式。
不自見、故明。
不自是、故彰。
不自伐、故自矜、故長。


夫唯不爭、故天下莫能興之爭。
古之所謂曲則全者、豈虚言哉。
誠全而歸之。


曲がっているからこそ全うでき、
屈まっているからこそ真っ直ぐになれ、
窪んでいるからこそ満ちることができ、
破れているからこそ新しくでき、
少なければこそ得られ、
多ければこそ迷うもの。

そういうわけで聖人は、
一なる道を抱いて世の中の人々が仰ぎみる模範となる。
みずから見識ありとはしないから、
ものごとがよく見える。
みずから正しいとしないから、
是非が彰らかになる。
みずから功を誇らないから、功がたもてる。
みずから才知を誇らないから、長つづきする。

そもそも誰とも争わないから、
世の中の人々は彼と争うことができない。
いにしえの人が言った
「曲がっているからこそ全うできる」とは、
どうしてでたらめなものか。
まことに、わが身を全うして天に帰すのだ。

 

『老子 峰屋邦夫訳注』より
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自分の目線(立場、見識)だけで見ないこと

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