頻繁に山に出入りしていると、
自分の存在自体が許されているかのように
住民のように振る舞え、向こうさんも受け入れてくれるが、
2週間ほどケガでお山に入っていないだけで
すっかり主人として山が山とそこに住まうモノ達の呼吸で埋めてしまう感じがしている。
そして、少しずつ僕も山と感覚をひとつずつすり合わせながら、
同時に試され、問われながら、
30分もすれば再び許しを受け、
一部となる。
きっと僕が道を誤れば、
再び許しを受けることが難しくなるんだろうなあ。
そうならないように精進したいと強く思っています。

我々人間は過去、現在、未来と一方向の流れにしたがって
不自由なまま生き死にを迎えるが、
山は、過去、現在、未来の自由な場所にピンを置くことが出来るようだ。
虫達は奔放であるけども、
木々は厳しく、
石はまた、無言成れどもより厳しい。
常に過去の匂いと未来の予感を
今という刻の中にふくませている。
つまり、
僕は過去とともに未来をも問われているのだ。
本当に厳しい。
禁をおかさず、いつまでも迎え入れて頂きたいものです。

僕にとっては鍼を持つことを許される感覚も
山に入ることを許される感覚も
かなり近いものと感じています。
ゆえに、
鍼師としても
山に入る者としても
おのずと歩むべき道は示されているものだということになり、
僕個人がどうしたいというなどということは
それらに大きく包まれてしまいます。
厳しく、有り難いです。

同時に、わたくしはこうありたいと主張し続けて
鍼を置く者がありますが、
本当に残念に思います。
自分を薄めることでいくらでも答えが見えてくる
ように思うのですが。

内容が伝わらないと困るので
最後はなんとか鍼の話につなげ、翻訳しました。
実は言いたいことはいつも同じです。
比喩を用いているに過ぎません。

鍼師 林。

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