自分の犯した罪を罰するのも、
道を示すのも、
讃える存在も
己自身の中にある。
鍼を通して、一人の人として
各々が戦っていくが、
そうやって自らのうちの各象徴が機能してこそ、
己が開くのであって、
相手さん、ここでは患者さんになるが、
届くのであると思う。
そこを繋ぐ道として、学術がある。
人格としての基礎に基づいてこそ、
上に建つ学術が意味を成すのだと、
僕らは思っています。
僕は思っている。
僕らと言えることを信じていますが。
それこそも、彼らが証明して欲しい。
自らの師の存在も、求めるべき答えも、学ぶという儀式も、法も
始めは憧れの人の“物差し”ではかるのが
彼らの常であるが、
やがてはやはり、おのれの物差しを築かなくてはならない。
それが僕たちの出会った意味だと思っています。
僕は彼ら、彼女等にとって入り口付近の看板に過ぎない。
その看板をなぎ倒すか、生かすか殺すか、一人一人が
全霊をもって通っていかなくてはならない。
僕にも、いくつかの看板があった。
しかし、いつまでも袂で仰ぐばかりではいけない。
今はずっと胸のうちにある。
前にも書いたが、それは目標ではなく、
合掌し、守るべき対象に置き換わっている。
生き死にを超えて僕らは何度も出会い、語らう。
やあ、はじめまして、さようなら。
そう、単純にはいかんだろう。
父を子のように感じる。
あの人を妹のように感じる。
兄を弟子のように感じる。
木々を兄や師のように感じる。
風を故郷のように感じる。
古くも新しくも
僕らの
繋がりは永遠に続いているようだ。
いらっしゃいませ。
お久しぶりです。
おお。なんだか涙が出てきました。
人の答えを借りたまま
自ら考え、動けない者は去るべし。