自分で撮っててなんですけど、
最近まで自分の写真に対して、“どうでもいい。”
って思って特に見返すような事もなかったんですけど、
最近、なかなか悪くないなって思う気持ちがちらっと
心の奥の方で芽生えてます。
不思議。
それは、
撮りたいと個人的に思う主体が
ときに 顔をのぞかすことがあるからかもしれません。
キレイだとか、美しいだとか。
基本、そういう事はどうでもいいと思っています。
その主体がそこにあるか。
これは鍼と同じで、
やはり僕の鍼はその主体に触れる機会が圧倒的に多い。
わかりやすかったり、
言葉で伝わる、伝わらない。
評価される、評価されないってのはこれまた、どうでもいかなって思っています。
その主体が現れる瞬間がなければ、
僕は鍼の神様(えらく簡単に俗っぽく書きました。)にそっぽを向かれることを意味するので
それが何よりも恐いことです。
それ以外の要素ってのは、うん、まあね。
がんばります。
写真は撮るのも撮られるのも苦手で興味も知識もありません・・・でした。
でも先生の写真はなぜだか気になります。
モノクロ写真独特の雰囲気があるのかと、ほかの人の写真を見てみました。
でもやはりどこか違います。
奥行が深い。
光と影のコントラストが際立ってる、そういえば鍼灸の用語で陰陽ってあるし。
写真って撮った人の心の眼なんかなぁ。
撮った人の目を借りてその人の眼と心に近づけるからかなぁ。
1枚の写真でこんなにいろいろ考えられるって面白いですね。
ちなみに私の写真苦手意識は子供の学校の行事や式などのイベントの度に仕事で見られない主人から「撮ってきて」と頼まれるもののまともに撮れたことがほとんどなくいつも怒られているからかもしれません。
運動会でも発表会でもその場の全体の雰囲気を楽しみたいのにカメラの小さなレンズで自分の子供だけ切り取って見るのがどうも苦手です。
ってうまく撮れない言い訳かな(汗)
ありがとうございます。
嬉しいです。
それは、人それぞれ撮りたいと思うものが異なるからではないでしょうか。
僕の場合、
被写体は、その撮りたい主体ではありません。
被写体も撮影者である僕も
登場人物のひとつでしかありませんので、
そのように感じられるのかもしれませんね。
鍼もそうであって、
治すために僕がその印を結ぶのであって、
治すのは僕でもなく、
ただ治るだけであり、
治そうという気さえありません。
不思議ですね。