こんにちは下野です。
最近、京都を散策することが多くなり、
毎回違ったお店で食事やお茶をしているのですが、
ただ一店だけ必ず立ち寄るお店があります。
それは京都三条にあります「伊右衛門サロン京都」です。
”お茶を通じた新たなライフスタイルの提案”というコンセプトで設立され、
お茶は勿論ですが、お茶にあった食事(朝・昼・夜)や御菓子、
茶葉・茶器の販売もしております。
内装は、町屋を現代風のカフェという形で表現されており、
いつもゆっくりさせて頂いております。
先日は「とろとろビーフシチュー御膳」を頂きました。
美味しかったです、御馳走様でした。
では「難経」の記事に参ります。
<原文>
「第二十難」
二十難曰、経言、脈有伏匿。伏匿於何臟而言伏匿耶。
然。
謂陰陽更相乗、更相伏也。
脈居陰部而反陽脈見者、為陽乗陰也。
脈雖時沈渋而短、此謂陽中伏陰也。
脈居陽部而反陰脈見者、為陰乗陽也。
脈雖時浮滑而長、此謂陰中伏陽也。
重陽者狂、重陰者癲。
脱陽者見鬼、脱陰者目盲。
「第二十一難」
二十一難曰、経言人形病脈不病曰生、
脈病形不病曰死、何謂也。
然。
人形病脈不病、非有不病者也、
謂息数不応脈数也。此大法。
<現代語訳>
「第二十難」
医学経典に「脈には伏匿(隠れる)ものがある。」と記しているが、
どの臓に隠れて「伏匿する」というのか。
答え。
陰陽が相互に乗じ、相互に伏匿することを表している。
脈が陰の部位にありながら陽脈(浮・滑で長)を呈すものは
陽が陰に乗じたものと判断し、
その脈がときに陰脈(沈・渋で短)を示した場合は、
陽の中に陰が伏したとする。
脈が陽の部位にありながら陰脈(沈・渋で短)を呈した場合は
陰が陽に乗じたものと判断し、
その脈がときに陽脈(浮・滑で長)を呈した場合は
陰の中に陽が伏したとする。
陽・陰の部位がともに陽脈の者は狂症となり、
陽・陰の部位がともに陰脈の者は癲症となる。
陽を脱した者は幻覚を見るようになり、
陰を脱した者は盲目となってしまう。
「第二十一難」
医学経典に
「人が肉体的には病気であっても、脈象が病んでいないければ”生”とし、
脈象が病を現しても、肉体的には病が現れていないものは”死”とする。」
とあるが、これはどういったことなのか。
答え。
肉体が病んでいて脈が病んでいない場合と言っても、
本当に病んでいないという訳ではない。
呼吸数が脈数と一致しないことを言っているのである。
これは診断の大原則である。
解説
「第二十難」
脈を切脈部位で陰陽を分けると、寸口が陽・尺部は陰となり、
脈象で分けると浮・滑・長は陽に、沈・渋・短は陰になる。
陽部に陽脈が、陰部に陰脈が現れるのは正常な脈であるが、
尺位(陰)に浮・滑・長の陽脈が現れれば陽が陰に乗じたものとなり、
その脈の中に時として沈・渋で短の脈が現れれば、
それは陽脈の中に陰脈が伏した状態となる。
これとは逆に、
寸口(陽)に沈・渋・短の陰脈が現れれば陰が陽に乗じたものとなり、
その脈の中に時として浮・滑・長の脈が現れれば、
それは陰脈の中に陽脈が伏した状態となる。
この様な時は、脈状が錯雑になるだけではなく、病状も複雑多岐となる。
また当難では、陰陽がさらに偏勝・さらに虚した場合についても述べており、
陽が勝と「狂」となり、怒り狂う・罵詈雑言を言ったりするという症状が見られ、
脱陽になると、幻覚を見るようになる。
陰が勝と「癲」となり、嘆き悲しむ・怨み憎むといったものが見られるようになり、
脱陰になると、盲目となる。
「第二十一難」
当難では、肉体と脈の病態と予後との関係を説明している。
肉体が病象であっても、脈や呼吸が調っていれば予後は良好であるが、
脈が病的であれば、肉体が健康であっても予後不良となるとし、
なぜならば脈は人体の真気の反映であるからである。
<参考文献>
『難経解説』 東洋学術出版社
『難経鉄鑑』 たにぐち書店
※画像や文献に関して、ご興味がおありの方は
是非参考文献を読んでみてあげて下さい。