どうも、新川です。
冬至も過ぎ、めっきり寒くなりました。
湯冷めするのがいやなので、
最近は控えておりますが、
一時期よく銭湯へ行っておりました。
郊外にある大型のスーパー銭湯もいいですが、
地域にあるほっこりした
小さめの銭湯がお気に入りです。
そんな折、
『関西のレトロ銭湯』なる本を発見しました。
銭湯内の写真がしっかり掲載されており、
なかなか見応えのある一冊です。
さて、今回は
離合真邪論篇についてです。
今回は、離合真邪論篇について綴って参ります。
本来ならここにまとめてある以上の内容がありますが、
なるべく分かりやすくするため、
一部を抜粋して表現させて頂いております。
【離合真邪論篇 第二十七】
・
・
黄帝がいう。
「気を候うのは
どのようにすべきなのか。」
・
・
・
・
・
・
・
岐伯がいう。
「☆邪気を阻止するのに瀉法を用いるには、
間髪を入れずにやらねばならず、邪気が至ったときを見計らってすぐ鍼を下して瀉します。
→鍼を進めるのに早まっても遅れても時に合わぬことになり、
邪を去りえないばかりか、逆に血気が損われ、
病は容易なことでは退かなくなります。
・
・
★気が虚のときに瀉法を用いてはならない
→邪気が来るのを診察するには、
必ず押し撫でてこれを止め、
その発展を阻止して鍼で瀉すべきです。
だが、邪気が突進してくるときには瀉法を用いてはいけない、というのです。
真気とは経脈の気のことですから、
邪気が衝きあげて進めば経気は大いに虚するのであり、
このときに瀉法を用いたのでは、
かえって経気をひどく虚にしてしまうのです。
★邪気がすでに経から去ったらまた追いかけたりしてはならない。
→邪気を候い診て、大邪の気がすでに去ったのに不用意に瀉法を用いてかえって
真気を虚脱させてしまうと、真気が虚脱となった以上もう恢復は不可能であり、
真気が戻らなければ邪気がますますひどくなって病は重くなるばかりということになります。」
・
・
黄帝がいう。
「補瀉はどのようにするのか。」
・
・
・
・
・
・
・
岐伯がいう。
「やはり邪を攻めることを主とします。
space
space
space
時に遅れることなく刺して盛血を出し、
正気を回復するのです。
病邪がまだ侵入したばかりで、
流動していて居処を定めておらず、
推せば前に進み、引けば止めうるというときに、
その気を迎え打って瀉し、その毒血を出し、
その血を刺して出せば、病はたちどころによくなります。」
・
・
・
黄帝がいう。
「すばらしい。
では病邪と真気とが合わさった後、
脈気に波動が現れないときはどう診察するのか。」
space
space
space
space
・
岐伯がいう。
「三部九候の盛衰・虚実を詳しく観察して調え治めます。
その方法は、患者の左右上下各部分について、
つりあっていない場所、
そこだけ特に減衰し弱った場所がないかどうか観察するのであり、
そうすれば病がどの蔵府にあるかがわかり、
その気が至るのを待って刺すことができます。
space
三部九候を理解できなくては、陰陽も弁別できず、
上下についてさえよくわからぬはずで、
身体下部の脈によって下部を診察し、
上部の脈によって上部を診察し、
中部の脈によって中部を診察し、
胃気の多少・有無と結合して、
病脈の部位を理解する〔三部九候診〕など思いもよらぬことです。
そこで、鍼刺するのに三部九候によって病脈の部位を理解することを知らないと、
大邪が害をなすことがあった場合ですら、
その医家にはことに先んじて予防する手だてがない、といわれるのです。
もし過がないのに罰してしまう、
すなわち瀉すべきではないのに瀉してしまうようであれば、
これを『大いなる惑』とよび、反って蔵府経脈を乱し、
真気を回復できなくします。
実症を虚症と勘違いしたり、邪気を真気と思ったりでは、
鍼の用い方にまったく道理というものがなく、
かえって邪気が害ををなすのを助け、
病人の正気を奪い、順症を逆症に変えてしまい、
病人の栄衛を散乱させて、
真気を失わせ、邪気のみが内にあるようにしてしまい、
病人の生命を断ち、人々に多大な災禍を与えることになります。
こうした三部九候を理解せぬ医家では〔人の生命を〕長く保つことができません。
四時五行に配当し、〔五行〕相勝の道理を加えるのを知らぬために、
邪気を見過ごして正気を損ない、病人の生命を断ってしまうに至るのです。
〔こうしたわけで〕病邪が新たに身体に侵入し、
まだその場を定めておらず、推せば前へ行き、引けば阻み止まるときに、
迎えて瀉すれば、その病はたちどころによくなるのです。」
黄帝問曰、余聞九鍼九篇。夫子乃因而九之、九九八十一篇。
余尽通其意矣。
経言気之盛衰、左右傾移、以上調下、以左調右。有余不足、補写於栄輸。余知之矣。
此皆栄衛之傾移、虚実之所生、非邪気従外入於経也。
余願聞邪気之在経也、其病人何如、取之奈何。
岐伯対曰、夫聖人之起度数、必応於天地。故天有宿度、地有経水、人有経脈。
天地温和、則経水安静。天寒地凍、則経水凝泣。天暑地熱、則経水沸溢。
卒風暴起、則経水波涌而隴起。夫邪之入於脈也、寒則血凝泣、暑則気淖沢。
虚邪因而入客、亦如経水之得風也。経之動脈、其至也亦時隴起。
其行於脈中、循循然、其至寸口中手也、時大時小。大則邪至、小則平。
其行無常処、在陰与陽、不可為度。
従而察之三部九候、卒然逢之、早遏其路。吸則内鍼、無令気忤。静以久留、無令邪布。吸則転鍼、以得気為故、候呼引鍼、呼尽乃去。大気皆出。故命曰写。
帝曰、不足者補之奈何。
岐伯曰、必先捫而循之、切而散之、推而按之、弾而怒之、抓而下之、通而取之、外引其門、以閉其神。
呼尽内鍼、静以久留、以気至為故。
如待所貴、不知日暮。其気以至、適而自護。候吸引鍼、気不得出。各在其処、推闔其門、令神気存、大気留止。故命曰補。
帝曰、候気奈何。
岐伯曰、夫邪去絡入於経也、舍於血脈之中。其寒温未相得、如涌波之起也、時来時去。故不常在。
故曰方其来也、必按而止之、止而取之。
無逢其衝而写之。真気者、経気也。経気太虚。
故曰其来不可逢。此之謂也。
故曰候邪不審。大気已過、写之則真気脱。脱則不復。邪気復至、而病益蓄。
故曰其往不可追、此之謂也。不可挂以髮者、待邪之至時、而発鍼写矣。若先若後者、血気已尽、其病不可下。
故曰知其可取如発機、不知其取如扣椎。故曰知機道者、不可挂以髮、不知機者、扣之不発。此之謂也。
帝曰、補写奈何。
岐伯曰、此攻邪也。疾出以去盛血、而復其真気。此邪新客、溶溶未有定処也。推之則前、引之則止。
逆而刺之、温血也。刺出其血、其病立已。
帝曰、善。然真邪以合、波隴不起、候之奈何。
岐伯曰、審捫循三部九候之盛虚而調之。察其左右上下相失及相減者、審其病蔵以期之。
不知三部者、陰陽不別、天地不分。地以候地、天以候天、人以候人、調之中府、以定三部。
故曰、刺不知三部九候病脈之処、雖有大過且至、工不能禁也。誅罰無過、命曰大惑。
反乱大経、真不可復、用実為虚、以邪為真、用鍼無義、反為気賊、奪人正気、以従為逆、営衛散乱、真気已失、邪独内著、絶人長命、予人夭殃。
不知三部九候、故不能久長。因不知合之四時五行、因加相勝、釈邪攻正、絶人長命。
邪之新客来也、未有定処、推之則前、引之則止、逢而写之、其病立已。
参考文献:
『黄帝内経素問 上巻—現代語訳』
『中医基本用語辞典』 東洋学術出版
『臓腑経絡学』 アルテミシア
人物イメージ画(黄帝、岐伯):為沢〔一鍼堂〕
※画像や文献に関して、ご興味がおありの方は
是非参考文献を読んでみてあげて下さい。
新川