こんにちは、大原です。
記事「鍼灸甲乙経を読む その1」の続きです。
第1篇の「精神五蔵 第一(精神と五臓)」の最後までいきます。
今回の内容は、五臓、すなわち、肝、心、脾、肺、腎それぞれが
変動した場合などについて順番に記されています。
原文からみてみましょう。
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<原文>
・・・
肝悲哀動中則傷魂、魂傷則狂忘、其精不守、令人陰縮而筋攣、兩脇肋骨不擧。毛悴色夭、死于秋。
『素問』曰「肝在聲爲呼、在變動爲握、在志爲怒、怒傷肝。」
『九巻』及『素問』又曰「精気并於肝則憂。」
解曰「肝虚則恐、実則怒。怒而不已、亦生憂矣。
肝之與腎、脾之與肺、互相成也。
脾者土地、四臓皆受也焉。故恐發於肝而成於腎、憂發於脾而也於肺。
肝合膽、膽者中精之府也。腎蔵精、故恐同其怒、怒同其恐。一過其節則二蔵俱傷。」
心怵惕思慮則傷神、神傷則恐懼自失、破醸、脱肉、毛悴色夭、死于冬。
『素問』曰「心在聲爲笑、在變動爲憂、喜傷心。」
『九巻』及『素問』又曰「精気并於肝則喜矣。」
或言「心與肺脾二経有錯、何謂也?」
解曰「心虚則悲、悲則憂。心実則笑、笑則喜矣、心之與肺、脾之與心、亦互相成也。
故喜發於心而成於肺、思發於脾而成心。一過其節、則二蔵俱傷。」
脾愁憂而不解則傷意、意傷則悶亂、四肢不擧、毛悴色夭、死于春。
『素問』曰「脾在聲爲歌.在變動爲噦。在志爲思、思傷脾。」
『九巻』及『素問』又曰「精気并於脾則畏矣。」
肺喜樂無極則傷魄、魄傷則狂。狂者、意不存其人、皮革焦。毛悴色夭、死于夏。
『素問』曰「肺在聲爲哭、在變動爲欬、在志爲憂、憂傷肺。」
『九巻』及『素問』又曰「精気并於肺則悲。」
腎盛怒而不止則傷志、志傷則喜忘其前言、腰脊不可俛仰。毛悴色夭、死於季夏。
『素問』曰「腎在聲爲呻、在變動爲慄、在志爲恐、恐傷腎。」
『九巻』及『素問』又曰「精気并於肺則恐、故恐懼而不解則傷精、精傷則骨痠痿厥、精時自下。」
是故五藏主藏精者也、不可傷、傷則失守而陰虚、陰虚則無氣、無氣則死矣。
是故用鍼者、察觀病人之態、以知精神魂魄之存亡得失之意、五者以傷、鍼不可以治之也。
<読みなど>
・・・
肝、悲哀し動中するときは則ち魂傷る。
魂傷れば則ち狂忘し、その精守らず、人をして陰縮み筋攣し、両脇肋骨挙がらず。
毛悴し色夭し、秋に死す。(『霊枢』本神篇(8)より)
『素問』曰わく
「肝声に在りては呼と為し、変動在れば握と為し、在に在れば怒と為し、怒肝を傷る。」
(『素問』陰陽応象大論篇(5)より)
『九巻』及び『素問』又曰わく
「精気肝に並べば則ち憂となる。」(『霊枢』九鍼篇(78)より)
解いて曰わく
「肝虚すれば則ち恐となり、実すれば則ち怒となる。
(『霊枢』本神篇(8)より)
怒して已まず、また憂生じる。
肝のこれと腎、脾のこれと肺、互いに相成るなり。
脾なる者土地なり、四臓皆受くなり。
ゆえに恐、肝に発して腎に成るなり、憂、脾に発して肺に成なり。
肝、膽に合し、膽なる者、中精之府なり。(『霊枢』本輸篇(2)より)
腎は精を蔵し、ゆえに恐は其の怒と同じくするなり、怒はその恐と同じくするなり。
一その節を過ぐれば則ち二蔵ともに傷る。」
心、怵惕し思慮すれば則ち神を傷る、
神、傷れば則ち恐懼自ら失し、醸を破り、肉を脱し、毛悴し色夭し、冬に死す。
(『霊枢』本神篇(8)より)
『素問』曰わく
「心声に在りて笑と為す、変動在れば憂と為す、喜は心を傷る。」
(『素問』陰陽応象大論篇(5)より)
『九巻』及び『素問』又曰わく
「精気、肝に並べば則ち喜となる。」(『霊枢』九鍼篇(78)より)
或いは言う
「心と肺脾の二経に有るは錯なり、何を謂うや?」
解いて曰わく
「心虚すれば則ち悲となり、悲となれば則ち憂となる。
心実すれば則ち笑となり、笑となれば則ち喜となる。
心のこれと肺、脾のこれと心、また互いに相成るなり。
故に喜、心に発して肺に成る、思、脾に発して心に成る。
一その節を過ぐれば則ち二蔵ともに傷る。」
脾、愁憂して解かざれば則ち意を傷る。
意、傷れば則ち悶乱し、四肢挙がらず、毛悴し色夭し、春に死す。
(『霊枢』本神篇(8)より)
『素問』曰わく
「脾声に在りては歌と為し、変動在れば噦と為し、志に在りては思と為し、思は脾を傷る。」
(『素問』陰陽応象大論篇(5)より)
『九巻』及び『素問』又曰わく
「精気脾に並すれば則ち畏となる。」(『霊枢』九鍼篇(78)より)
肺、喜楽して無極なれば則ち魄を傷る。
魄、傷れば則ち狂となる。
狂なる者、意、その人に存ぜず、皮革焦れ、毛悴し色夭して、夏に死す。
(『霊枢』本神篇(8)より)
『素問』曰わく
「肺、声に在りては哭と為し、変動在れば欬と為し、志に在りては憂と為し、憂は肺を傷る。」
(『素問』陰陽応象大論篇(5)より)
『九巻』及び『素問』又曰わく
「精気肺に並すれば則ち悲となる。」(『霊枢』九鍼篇(78)より)
腎、盛んに怒して止まざれば則ち志を傷る。
志、傷れば則ちその前言をよく忘れ、腰脊俛仰すべからず。毛悴し色夭し、季夏に死す。(『霊枢』本神篇(8)より)
『素問』曰わく
「腎、声に在りては呻と為し、変動在れば慄と為し、志に在りては恐と為し、恐は腎を傷る。」
(『素問』陰陽応象大論篇(5)より)
『九巻』及び『素問』又曰わく
「精気腎に並すれば則ち恐となる。(『霊枢』九鍼篇(78)より)
ゆえに恐懼して解けざるは則ち精を傷る、
精傷るときは則ち骨痠痿厥し、精は時に自ら下る。」
この故に、五藏は精を蔵するを主る者なり、傷るべからず。
傷れば則ち守を失して陰虚し、陰虚すれば則ち気無し、気無きときは則ち死す。
これゆえ、鍼を用いる者、病人の態を観察し、
もって精神魂魄の存亡得失の意を知り、
五者すでに傷るときは、鍼をもって治すべからずなり。
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五臓の精神活動(=志)について、
肝ー怒、
心ー喜、
脾ー思、
肺ー憂、
腎ー恐、
であるとされています。
これは『素問』の陰陽応象大論篇(5)にも同じ様に記されており、
この内容を抜粋したものと思われます。
(これは鍼灸の学校の教科書も出てきますね。)
さて、肝の精神活動である「怒」についてですが、
これは今の日本語では「怒る(おこる・いかる)」と読み、
「腹立たしい」「憤(いきどお)る」といった意味で用いられています。
ですので、現代の東洋医学の施療においても、
ある人が腹立たしい状態などが続いたりする場合には
肝気が、異常に高揚している、機能が亢進している
と解釈される先生が多いのではないでしょうか。
この「怒」の本来の意味についてですが、
ある解説本によると、もともとは
「今まさに爆発して四方に飛散せんとする力を束縛して
封じ込めておくこと」
といった意味になるようです。
これを、『素問』を編纂した王冰という医家が
「怒とは非を禁ずる所以なり」とあらわしているようです。
つまり、「怒」とは怒っている状態ではなく、
どちらかというと怒ろうとする前の、
鬱憤のたまったイライラしている状態をいうようですね。
何かを我慢したり緊張状態などが続いたりして、
「ジワジワと力む心のストレスをいう」とも解説されており、
参考になります。
その他の精神活動は、簡単にまとめると
「喜」は、笑い合う様子やよろこび、
「思」は、考えや思考、
「憂」は、心が沈みがちで心細い様子
となり、現代の意味と大体合います。
「恐」に関しては、
「恐怖」「おそれ」という意味で現代では用いられますが、
ここでは
「空虚で頼りない気持ち、心中に穴の空いたような虚しさを感じる」
といった意味になるようです。
続きます。
参考文献
『鍼灸医学大系 黄帝内経素問』
『鍼灸医学大系 黄帝内経霊枢』雄渾社
『完訳 鍼灸甲乙経(上巻)』三和書籍
興味のおありの方は、ぜひ参考文献もお読みください。