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こんにちは、為沢です。
今回も中国医学史を語る上で
伝説上とされる人物を御紹介します。

黄帝こうてい(紀元前2717年〜紀元前2510年)

黄帝
黄帝

中国の歴史書である司馬遷の史記に黄帝のことが記載されております。

『史記』五帝本紀の第一
“黄帝者、少典之子。姓公孫、名曰軒轅。
生而神靈、弱而能言、幼而徇齊、長而敦敏、成而聰明。 “

和訓:
黄帝は少典の子なり。 姓は公孫こうそん、名は軒轅けんえんと曰う。
生まれて神霊、弱にして能く言い、
幼にして徇斉じゅんせい、長じて敦敏とんびん
成りて聡明なり。

少典とは伏羲ふっき女媧じょかと言った
三皇たちの直系の子孫のことで、
黄帝は少典と附宝との間に産まれました。
寿丘じゅきゅう(山東省曲阜市)にて育った黄帝は、
姓を公孫こうそんと言い、名を軒轅けんえんと言います。
軒轅の丘に住み軒轅氏と号し
有熊ゆうゆうに都を建設したので有熊氏とも称されました。
有熊は河南省にあったと言われており、父の少典がその領主でした。
生まれたときから神霊を持ち、
幼い頃から優秀だった軒轅は成長し聡明な人物となります。

軒轅が育った頃、
世の中は神農(三皇の神農ではなく、その子孫)が治めていましたが、
その徳は衰え権威を失い、天下争乱の状態になっておりました。
軒轅は最初、一部落の長にすぎませんでしたが
その卓越した兵法により、争い合う諸侯を征伐し、
勝を積み重ね、部落を併合していき、
後に蚩尤しゆう(当時の豪族)や神農とも戦い
中原の地(古代中国の中央部、黄河の中・下流)を統一しました。
こうした武勲により彼は華夏族の始祖として崇められ、
土徳の瑞祥ずいしょうがあった為(土は五行で黄、中央という方角に属していることから)
黄帝と言われるようになりました。

つづく


参考文献:
『東洋医学 基礎編』
『いちばんわかる!東洋医学のきほん帳』学研
『東洋医学概論』医道の日本社
『中国医学の歴史』
『中国鍼灸各家学説』東洋学術出版社

画像:
『図像本草蒙筌』総論,首巻,巻之1-12
早稲田大学図書館古典籍総合データベースより
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ni01/ni01_00815/index.html

為沢

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