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こんにちは、為沢です。
今回は張景岳の『質疑録』の第六章「論無痰不作眩」の其の一です。
和訓:
眩は頭の暈むことなり。
眼に黒花有り、舟庫の上に立つが如し、旋転する者はこれなり。
劉河間は専ら火を主とし、肝木の自ら病むと謂えり。
経に云う、諸風の掉眩するは皆肝に属す。
肝風の動きて火の上炎するなり。
故に丹溪は嘗て言えり、火の無ければ痰を生ぜず、
痰は火に随って上る、故に痰無ければ眩を作さず。
夫れ眩は病なり。痰は病に非らざるなり。
痰は人身の素より有する物に非ず。
痰は身の津液なり。気の滞り、血の凝めば、則ち津液は化して痰と爲る、
是れ痰は病に因りて生ずる者なり。
若し痰無ければ眩を作さず、と云うならば
痰は眩病の本と爲すに似たり。
・眩…頭や目が揺れるような感じがすること。
眼は真っ暗にかすみ、小舟に立っているように不安定で
グルグル回転する感覚がある。
・劉河間は眩病は専ら火によるものであるとし、
「肝木が自ら病む」ものであると云った。
・『内経』(素問・至真要大論)では
「諸風の掉眩するは皆肝に属す。」
とあり、肝風が動いて炎が上炎することによるものである。
・丹溪は「火が無ければ痰を生ぜず、
痰は火に随って上る故に痰無ければ眩を作さず曰うなり」と云った。
・眩は病である。痰は病ではない。
痰は元来から体の内に存在するものではなく、
痰は身の津液である。気が滞ったり、血が凝結したりすれば
津液は変化して痰が作られるのであるから、
痰は病によって生じるものである。
だからもし「痰無ければ眩を作さず」というならば、
それはあたかも痰が眩病の本であるというのに
似ているではないか。
参考文献:
『中国医典 質疑録』 緑書房
『中国医学の歴史』 東洋学術出版社
『中国鍼灸各家学説』東洋学術出版社
※画像や文献に関して、ご興味がおありの方は
是非参考文献を読んでみて下さい。
為沢