<近日開催予定のイベント>
12月6日(水) :告知!第6回、鍼灸学生の為の勉強会


こんにちは盧です。

もう11月も中旬です。
もうそろそろ年賀状買いに行こうかなとか
御歳暮をどうしようかなとか
いろいろ考えてしまいます。
ふと思いましたが
御歳暮やお年賀状っていつからの
習慣なのでしょうか?
昔のことを調べていると妙にルーツとか
気になってしまいます。

ところで
東洋医学というのは西洋医学と違い
「〜科」というのはあまりありません。
自分としても東洋医学は「何でも屋」だと
思うところがあります。
しかしそんな「何でも屋」の中ですが
体の状態の特殊性から
専門的に述べられるものがあります。
それが婦人科と小児科です。

今日はそのうち伝統医学における
小児科の始祖と言われる銭乙(せんいつ)を
紹介いたします。


銭乙(せんいつ)

彼は北宋の時代
西暦1032年の生まれであると言われております。
(宋の時代は東洋医学における一大転換期になる
のですが、その話はまたの機会に)

生まれは杭州で、祖父と父と
共にとても優秀な医者であったと言われています。
しかし銭乙がまだ三歳の頃、
父親が漁に出ると行ったまま
帰ってこなくなってしまします。
今で言えば、蒸発というやつですね。

そのため祖父に育てられた銭乙は
代々医者の家系ということも手伝って
医学を学び始めます。
特に銭乙はその中でも小児について
書かれた最古の東洋医学書である
顱沽経(ろしんきょう)」を好んで研究しました。
当時、子供は単に大人を小さくしたものではなく
その独特の特徴から「啞科」と言われ
治療が非常に難しかったとされていました。
(ちなみに「子供の身体は純陽」
であるという名言は『顱沽経』に端を発します)

その後、都に出ると銭乙の腕はたちまち広まり
ついに王の主治医のNo.2にまで上り詰めます。

特に小児科においては当代一と言われ、
望診の名手でもあったようです。

その後、官職を全て辞して隠遁し
医学の研究に没頭しますが訪れる患者は
あとを絶たちませんでした。

そして
銭乙はこの小児科という分野を
特に詳しく研究し、
『小児薬証直訣』を著しました。

この本には銭乙の診療記録も入っており
当時の生々しい様子が書かれております。

また余談ではありますが
この本の中には現代でも使われる
六味丸」という処方が初めて登場し、
後々の東洋医学の歴史において小児科にとどまらず
多大な影響を及ぼしました。


歴代の名医と言われる医家たちはみな
なぜか最後は隠遁するようです。
いろいろと思うところがあるのでしょうか?

ちなみにこの蒸発した銭乙の父親は
銭乙の名声が広まり、彼が必死で探し続けたことも
あり無事再会出来たそうです。
お互い複雑な心境になりそうですね

プライベートはともかく
いろいろな功績を残し当時としては
長生きであった82歳でお亡くなりになります。
六味丸」は今でもよく耳にする漢方薬の一つなので
そんな処方が約1000前に生み出されていたと知ると
なんだか感慨深いものを感じてしまいます。


参考文献
『小児薬証直訣』人民衛生出版

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