こんにちは盧です。

「過去の否認は有害な態度である。
現在と戦い、
未来を創造するには、
往々にして過去が最も有効な武器なのである」

ジュリアン・グリーン

伝統医学と呼ばれる東洋医学ですが、
長い伝統の中で常に患者さんと向き合い、診療していた歴史があります。
長い伝統のなかでターニングポイントとなった医家が大勢います。
そんな人々を紹介していきたいと思います。

まず第一回は清代初期の名医、喩 嘉言(ゆ かげん)です。


喩 昌(字は嘉言)
またの名を西昌老人と言います。

当時、北京の都で役人をしていた喩は
政治への不信感や家庭の不和などから
四十歳ごろで出家して禅僧となります。

その後、禅僧をやめて俗世に帰ったのち、
医学の研究を行い、医者として生きる道がはじまりました。
(当時としてはかなり高齢な中での転職ですね。
その心意気たるや恐れ入ります・・・)

当時、姉が住んでいた南昌と靖安をしばしば往来し、
医業を営むなかで日に日にその名声は高まり、
ついに靖安では患者が戸外まであふれたという。

その後、各地を転々として医業を行っておりましたが
常熟県城北門の山下、貧民街に定住し医業を続け、
79歳でこの世を去ります。
清代初期代表するにふさわしい
著名な臨床家であったと言えるでしょう。

学問的には、
腎の元気を重視する明代の医学者達に対抗して
胸中の陽気(宗気)を非常に重要視した言われています。

また当時の医師達が経典(黄帝内経・傷寒論・金匱要略)を尊重せず、
金元代の医家ばかりを手本とする傾向を
「『霊枢』『素問』『甲乙経』『難経』など、処方の無い書物は全く勉強せず、
後世の方書(方剤が載っている本)ばかりを宝物のように崇めている」
と当時の方剤偏重し、理論を軽視する人々を嘆いています。

弟子に徐彬(ジョヒン)、程林、尤怡(ユウイ)などがいる。

 

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仏門から医業の世界に入った喩嘉言。
当時、名医として名をはせ、名士達から
当時の知識人十四選の中の1人に選ばれながらも、
国からの官医(国直属の医者)の申し出をすべて断り、
貧民街でその一生を終えた彼の心境はどんなものがあったのでしょうか?

学術的にも非常に実用的なものを求める時代の中で
黄帝内経などの経典の重要性を説くだけでなく
後の時代の温病学への足がかりをつくるなど
「温故知新」を身を以て体現した先生と言えるでしょう。

次回:喩嘉言の代表作『医門法律』を見ていきたいと思います。
つづく

 


参考文献
『中医伝統流派の歴史』 東洋学術出版
『中医鍼灸各家学説』東洋学術出版
『医門法律』人民衛生出版社

 

ジャコメッティ展 撮影許可スペースにて2
ジャコメッティ展 撮影許可スペースにて2

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