いろいろな悩みがあり、
日々、眠れぬ夜が続いている。
昨夜も我が内では悶々と問答が繰り広げられ、
「もう、限界かなぁ。いろいろやりたい事が多すぎる。
大きなものを抱えながらオレの体自体がそれに付いていけない。
オレと言う入れ物にある時点でもう限界なのか。
このままではオレがオレ自身に食われてしまうぞ。」
と、自分に言っているのか、
天に対して訴えかけているのか。
そんなことを強く考え続けた。
そのとき、
”名前を変えなさい。容れ物を変えてやる”
との答えが聞こえた。
聞こえたのか。
もちろん僕の問い自体も声にして出るものでもないから、
そこにダイレクトに答えがあった。
自分の声か。
天の声か。
うーむ。名前なぁ。
1つの意思をそこに託し名づけること自体、
その存在を縛り付ける。
それ自体に僕は苦しんできた。
よって、
老子の曰く、物事を支配する流れそのものを現す
”玄”、”一”を大事にしてきたので、
「玄一とします。」と答えた。
林と玄一で 林玄一と。
本当はゆっくりと考えたいと言う優柔不断な意識も
僕の中にはなったのだが、
なにしろそういう大きなものと、つながっているという
感覚自体がとても貴重なもので、
本棚に言ってごちゃごちゃすること自体、
野暮ったく、機会も去ってしまう気がするので、
即席で出来た名ですが、
これを心の中で鍼を持つときには名乗らせていただこうと考えています。
自分の中に大きな流れがあって
天地にも同じ流れがある。
それが万物が気一元だということ。
不思議なこともあるもんだ。
いやいや、不思議なことの方が多いのだ。
我々人類は、小さな頭でその尻尾を追っかけまわしているに違いない。
うん、確かに名を名乗るのもいいことかもしれない。
昔の豪傑はすごいと思う。
自分のことを表現する、出来ること自体がすごいと思う。
多くの芸術家を見ても多くが、
己というもの表現に付いていけなく、自分に食われる。
耳を切り落とすものがいたり、自決するものがいたり。
自分も鍼に陶酔することはそれでよい。
しかし、自分の大きな意思を、一人の人間という小さな容れ物によってコントロール出来なくなることがある。
患者の治療でへろへろになってしまって、
自分と患者とどっちが病人か。
今回は、それをどうにかしてやるとの声をいただけたのでやってみようと思う。
ありがたい。
”声”にはいつも助けられる。
変な話をしてすいません。
こういうことって僕には日常茶飯事的に起こります。
しかし、世間には一般論と特殊論がありますよね。
あまり書かないほうが良いのかなとも強く思います。
許されるなら書いていこうと思います。
しかし、不愉快なら仰って下さい。
書かずとも良いこともあろうかと思います。
人生とは、恐ろしくロマンチックで、恐ろしく残酷でシビアなもんだとしみじみ思います。
ドラマ以上の展開がよくもまあ、人生に起こるもんだと。
まあ、宿命なんでしょうね。
”では、いったい自分の宿命はなんなんだと!”
いや、
本当は自分でも解っているんですが、意地悪を言ってみました。
そう言いたくもなりますぜ。