今朝、ふと一冊の本を手に取り
懐かしく読み進めると、あるところで目がとまる。
ここに紹介する。
何故にこの箇所をのせようと強く思ったか。
それは、自分に対する戒めもあろうかと思う。
権威に対しても言わなければいけないことは、
しっかりと言うべきだということ。
それがプロなのだということ。
私の心に強く刺さる。
自分自身に甘さがあったのではないかと。
医者の権威
一夫人(名は知らねど早大の教授で、文学博士の夫人なりという)
来りて云う。
「娘が脚気がわるいのでお灸をすえていただき度いのですが、
洋服を着いるので、腕首へお灸をすえるのは嫌だといいます。
それで腕首へすえなくてもよろしいかどうか、お伺いにまいつたのですが」
と云う。
先生はこれに対しいわれた。
「腕首の陽池の灸は古来数千年、
支那でも解くことが出来なかった大切な灸で、
三焦を治すには無くてならぬ灸なのです。
あなたの娘は脚気が悪いと云うが、漢方には脚気などというものはない。
脚気は脾と腎か起るのです。
そうしてあなたの娘さんは子宮の位置がわるいのです。
腕首の灸をすゑなければなほりません。」
こう先生が云われても、
「それでも娘は洋服を着るので腕首の灸をするのは嫌だというですが」
と夫人がいう。先生は声を荒くして、
「一体、あなたの娘は腕首の灸がいやだとか何とか云つて、
他人の体のような気がしている。
自己は自己として生きねばならんのです。
人のついでに生きているのでは無いのです。
人のついでに生きているような、そんな考えの者が増えるから
国が乱れるのです。
国の前途を思えば、心配にたえないです。
わしは斯んな仕事をしているけれども、
これでも憂国の心に於ては人後におちない。あなたの娘のような、
自己は自己として生きるということを
忘れて人のついでに生きているようなものの増えるのは、
教育が悪いのです。親の教育が間違つているのです。
そんな考えの者が教育者などになつているので、
やれ自由にやれどうだのといつて、危険思想が生まれるのです。
私はそんな人のついでに生きているようなやくざな人間に
お灸などすえなくつてもよいのです。
腕首の灸が恥しいというてすえなんでいて御覧なさい。
いまに子宮左屈だ後屈だなどなど西洋医者に云われて、
手術台のうえにのせられて、子宮を覗かれたり、切られたりします。
その方がよつぽと有難いのでしよう。」
このように猛烈にきめつけられて、夫人は坐にいたたまらず、
赤面して其の坐を立つた。
多くの医者たちが患者の意を迎え、世におもねつて、
一人でも患者の多からんことを願う世の中に、
敢然として少しも権勢におもねる所なく、
よく医人としての権威を示される先生の態度に
いたく感じ入りつつこの光景を目撃していた。
こういう事は、先生の治療室に於いて屢々起つたことであつて、
いつも先生は自らの信ずる処を侃々然として述べ、
所信をまげられるというような事は一度もなかつた。
それが大臣でも大将でも同様であつた。
沢田流聞書『鍼灸眞髄』代田文誌著 医道の日本社
「医者の権威」より抜粋
私は、治療方法に関わる所まで患者さんに制限された場合、私にはできない旨をお話します。
他の治療方法ならば、意に沿う方法もあるかもしれない。
かと言って、治療に関するもの全てについて我が主張を通すのではなく、可能な範囲で妥協できる手法を探る努力は必要だとも思います。
行き場のない方もいますから。
さすがですね★
僕のところは、基本的に紹介がほとんどなので
治療方法は概ね理解していただいてますが、
治療回数に関して制限されてしまい、
治せるものも治せないのが
一番つらいですね。
もどかしく感じます。
一ヶ月でもいいから黙って
信頼して俺に付いて来てくれ。
頼むからその時間だけは確保してくれ、
きっと答えは出すから、
と嘆くことはありますね。