<近日開催予定のイベント>
8月20日(日):第五回、鍼灸学生の為の勉強会〜【医古文・漢文の読み方No.2】〜
どうも新川です。
見ての通りの曇天模様でしたが、
それでも日中の暑さは厳しく、
スカイパーク滞在時間 約15分・・・(笑)
もし行かれる際は、
飲み物と日除けグッズをお忘れなく!
さて、ここからが本題です。
前回の記事:
歴史書と東洋医学 史記篇 其ノ一
歴史書と東洋医学 史記篇 其ノ二
『扁鵲倉公列伝』
倉公
淳于 意(前215年〜前150年)
彼は幼少の頃から医学を好み、
若くして公孫光に拝謁を許されて医術を学ぶ。
「太倉公者、齊太倉長、臨菑人也、姓淳于氏、名意。〜」
(倉公は、齊国の太倉の長官にして、生まれは 臨菑 の人なり。姓名は淳于氏、名は意。)
太倉とは、国の倉庫を指し、
それらを管理する官職に就いていたため『倉公』と称された。
「高后八年」の時に陽慶という人物に師事する。
この時代の背景を探ると、
項羽と劉邦が戦った「楚漢戦争」後に、
劉邦が漢の国を建て、
その后である呂后が、劉邦崩御後に
「高后」として実権を掌握した時代である。
陽慶からは、
「傳黃帝扁鵲之脈書、五色診病知人死生〜」
(黃帝、扁鵲之脈書を伝え、五色をもって病を診、人の死生を知る〜)
「黄帝、扁鵲之脈書」を伝えられ、「五色診病」(五色をもって病を診る法)を授かる。
「黄帝」とはあるが、
この書がいわゆる「黄帝内経」かは不明である。
黄帝と冠した書物が存在したことは確かなようである。
その後、陽慶から授かった医術を駆使し、
各地を回って病人の治療にあたっていたが、
「或不為人治病、病家多怨之者。」
(人の為に病を治さず、病家これを恨む者多し)
ということもあり、
漢の文帝(在位:前180年〜前157年)の時に、
ある人から訴えられ、処罰が下されることになる。
この時、倉公の末娘が文帝に嘆願し、
その娘の孝行ぶりに文帝が心動かされ、
罪は取り下げられる。
淳于意を語る上で重要となるのが、
「診籍」と呼ばれる医療記録(現代風にいえばカルテ)である。
計二十五例の内、
治癒に至った症例:15
病死に至った症例:10 が綴られている。
参考文献:
『中医基本用語辞典』
『中国医学の歴史』
『中医学の基礎』 東洋学術出版社
『国土社版世界の名作 史記』国土社
『史記国字解 第7』早稲田大学出版部
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是非参考文献を読んでみて下さい。