写真を撮るとき
それはこっちの行為の一方向にあるのではなく、
不思議と被写体との眼には見えない交流がある。
写る景色は、
こちらの境涯しだい。
どんな生き方をして、どんな人とともにあり、
どんな苦悩を結んできたか。
どんな夢を開いてきたか。
それ次第で向こうも振る舞いを決める。
だから、いつもいつも試される。
そして、写るそのすべてを撮る。
それは、自分自身の命を写し撮るわけだ。
試し続け、定点として刻むわけだ。
だから大事なことでずっと続けようと考える。
鍼は患者と術者の二者間で共有する現象。
病治しは出来るが、
絵画のように形に残すことは出来ない。
建築物のように形に残すことは出来ない。
音楽のように音に残すことは出来ない。
だから、時にこのように何かに残したくなる、のかもしれない。
だからといってたくさんのものを残しすぎるのは
心も重くなり、鍼も重くなる。
写真ぐらいが丁度良い。
そして自分が素直じゃないと、素直に景色は刻めないわけだ。
これは鍼と一緒。
自分が真っ白にする事が出来なければ、
大きな何かを動かす事は出来ない。
決まった色で立つと、鍼もその色で濁る。
そぎ落とすのが何よりもの修行。
僕はそう信じて、一鍼堂にいるみんなには伝えている。

そんなわけで、先日撮った写真
   ↓

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