こんにちは、本多です。
先日、
腹證奇覧に記載しております腹證について、
一通り掲載が終わったのですが更に理解を深めるため、
腹證奇覧の原文を基に改めて内容をみていきます。
今回は、
腹診書を代表する腹證奇覧が、
どのように著されたのか紹介致します。
腹證奇覧の著者の一人である
稲葉 文礼(いなば ぶんれい)が生まれた年月や出生地は不明。
1700年代前半〜1805年 の間ということだけはわかっているようです。
文礼は若い頃、悪の限りをつくした、
相当な不良であったことを
自らが著した腹證奇覧に記載されています。
そんなある日、
友人の言葉で感動したことが
医師を志すきっかけになったそうなのですが、
一体どんな会話がなされていたのか。
実は友人が医師を目指していて、
どうしてもその夢を諦めなければならなくなった友人に代わり、
文礼が医者になることを決意した。
あくまで想像ですが。笑
しかし、文礼は
「目、書を知らず、耳、文を聞かず」
文字の読み書きができない文盲であったそうですが、
医師になる方法を教えてくれる者がいないかを訪ね歩きます。
弟子入りを志願することは珍しくないと思いますが、
読み書きができない自分を売り込むことに、
相当な覚悟が伺えます。
半端な気持ちではできないです。
1775年、
文礼は『吉益東洞』を敬い古方を研究する、
腹診の名人であった
『鶴泰栄』と巡り会い、
「お前は学問はないが見所があるのでわしの弟子になれ」
と言われ、
腹診を学ぶことになります。
1793年
浜松で、
後に【腹證奇覧 翼】を著す
和久田 叔虎(わくた よしとら)と会うことになります。
このとき文礼は
「自分の術を伝えるに足る人物に会った」と喜び
自分の習得した腹診の方法を
全て伝えたとされています。
1795年
京都に腹診の術を拡めるためにきたものの
文礼の術は流行らなかったらしく
その憂鬱さを紛らすため
酒に溺れて半身不随となり自分で治療をする。
ということを繰り返したいたようです(^^;)
しかしこの頃には
腹證奇覧の前章とされる
【腹證図彙(ふくしょうずい)】が著されました。
1799年
腹證図彙の増補改訂版として
ついに【腹證奇覧】が書かれます。
1805年
稲葉 文礼が没した後、
文礼の想いを継いで
1809年
和久田 叔虎により
【腹證奇覧 翼】が著されました。
この「翼」とは、
叔虎が文礼の腹證奇覧を後世に届けたい。
という願いを継いで命名されたように感じます。
本多
参考文献:
腹證奇覽 盛文堂
腹證奇覧 医道の日本社