国民を煮詰めて国家があるわけではなく、
国家というものありきで、どういう国民にするかという
ベクトルが多くのものを支配していると気づかされました。
そのつなぎ糸として また、
手足としての教育やマスメディアの一部が存在するのかもしれませんね。
一般的に思われている国民と国家の関係がもはや
こちらとあちら側でその視点が逆なのかも知れない。
(メディア側からは異論があるかもしれませんが、離れた場所から望んだ一市民の眼鏡です。お許しを。)
各々の場所には各々の正義が存在しますから、
その正義があらゆる場所で争いを種を生み出す。
憎しみから生まれる闘争などむしろ少ないのではないでしょうか。
絶対的な事象と、
相対的な事象をはっきり区部する事が大事だと、
太古の智慧が示しています。
自分の道こそが正義だとやっていくと、
やはり、それこそ怪しくなってくるんですね。
必ず争いを生み出す。
表に出ない心の中でも多くの闘争が生まれる。
“正義という言葉”に、“正義という大義”に気を付けなければなりません。
純粋に信じ切って盲目になるのはまだしも、
悪い輩(皮肉として、また方便として用います。)は上のような言葉を巧みに用います。
最近、メディアよく出ている自分の利益の為の正義を振りかざすとある人物の顔を
私は頭に浮かべますが、
ここではよしましょう。
林