こんにちは、新川です。

最近、ほとんど運動らしいことが出来ていなかったので、
お休み前の夕方、
ふらふらとあてもなく散歩をしておりました。

いつも通り過ぎる街も、
ひとすじ違うと全く知らない空間になり、
気がつくと周りに街灯がぽつぽつ。

全身、汗だくでしたが、
よい気分転換になりました。

さて今回は、
玉機真蔵論篇です。


今回は、玉機真蔵論篇について綴って参ります。
本来ならここにまとめてある以上の内容がありますが、
なるべく分かりやすくするため、
一部を抜粋して表現させて頂いております。


【玉機真蔵論篇 第十九】②

玉機とは、
張景岳によると「璇璣玉衡〔渾天儀〕であって、これによって天道を窺うことができるが、
〔同様に〕この篇のすぐれた理論からは人道を窺うことができる。」
真蔵とは、「胃気のない脈のこと」であり、
脈と呼吸の変化において、胃気の有無は最も重要であり、
「胃気があれば生き、胃気がなければ死ぬ」といわれている。
この篇では、真蔵脈を珍重することを表している。

黄帝がいう。
「真蔵脈が現われれば間もなく死亡するというのは、
どのような道理なのか。」
岐伯がいう。「五蔵の栄養は、みな胃の腑の水穀の精気によってまかなわれています。
だから、胃は五蔵の根本なのです。
このため、五蔵の脈気は自分の力で手太陰経脈上の寸口に達することができず、
必ず、胃の気の拡がる力を借りて、はじめて、手の太陰に達することができるのです。
五蔵の気はそれぞれの蔵が主る季節に、
手の太陰寸口に現れることができますが、
つまり、これは胃の気があるからこそです。
もしも邪気が勝てば必ず精気を衰えさせます。
このため病気が重いときには、胃の気は五蔵の気とともに手の太陰に達することができず、
ある一つの蔵の真蔵脈だけが単独で現れます。
『真蔵の気独り見わる』というのは、
邪気が勝ち蔵気が損なわれたということで、
だから間もなく死亡するというのです。」
黄帝はいう。「よくわかった。」

肝の真蔵脈の打ちかたが、内外ともに力強く急で、
ちょうど刀の刃の上を押さえたときのように鋭く、
あるいは、琴の弦を押さえたときのように硬直であり、
かつ顔面が青白くてつやがなく、
毫毛が枯凋し生気がないものは、まもなく死亡する。
心の真蔵脈の打ちかたが、
手に触れる感じが堅く、
ちょうどハトムギをさすったときのように短く円くこりこりしていて、
かつ顔面が赤黒くつやがなく、毫毛の生気がないものは死亡する。
肺の真蔵脈の打ちかたが、大きく空虚で、
あたかも羽毛が人の皮膚に触れるときのように軽く虚ろであり、
かつ顔面が赤白くてつやがなく、毫毛の生気がないものはまもなく死亡する。
腎の真蔵脈の打ちかたが手に触れる感じが、
ねじれた縄が切れそうになったときのように堅く、
あるいは指で石を弾くときのように堅く充実していて、
かつ顔面が黄黒でつやがなく、毫毛の生気がないものはまもなく死亡する。
脾の真蔵脈の打ちかたが、軟弱無力で、遅速が一定せず、
かつ顔面が青黄くてつやがなく、毫毛の生気がないものはまもなく死亡する。
およそ五蔵の真蔵脈が現れればそれは不治の死証である。」

黄帝はいう。
「およそ病は治療するには、
必ずまず
肉体の盛衰、気の強弱、顔色のつやのよしあし、脈の虚実、病の新旧
を診察して、その後に適切な時期に治療をすれば、治療の時機を誤ることはない。
病人の肉体と気とが相い応じていれば、これは治療可能の症である。
顔面の色つやがよくはっきりしているものも病は治りやすい。
脈搏が四時の移り変りに適応しているものも治療可能である。
脈の打ちかたが弱で円滑であるのは胃気の現れで、病は治しやすいが、
必ず適切な時を見定めて治療を進めなければならない。
病人の肉体と気とが相い応じていないものは、治療困難である。
顔面の色つやが衰え光沢がないものも治りにくい。
脈が実でかつ堅いと、病は必ず重くなる。
脈が四時の移り変りに反しているものは治療不可能である。
必ずこれら四種類の治療困難の証をくわしく診察し、
はっきりと患者に告げるべきである。
いわゆる、脈が四時に反しているとは、
春に肺の脈が現れ、夏に腎の脈が現れ、秋に心の脈が現れ、冬に脾の脈が現れ、
それらの脈が懸絶で力がない、あるいは沈・濇で滑らかでないものを四時に反するという。
たとえば、
五蔵の脈気が季節に適応した脈象となって現れることができない場合、
つまり〔浮・大であるべき〕春や夏の季節に、かえって、沈・濇の脈象が現れたり、
〔沈・渋であるべき〕秋や冬の季節に、かえって、浮・大の脈象が現れる場合も、
四時に反するというのである。
熱病の脈は洪・大であるはずなのに、かえって静であるもの、
下痢のときの脈は小であるはずなのに、かえって大であるもの、
出血のときの脈は虚であるはずなのに、かえって実であるもの、
病が内にあるのに脈が実堅でないもの、病が外にあるのに脈がかえって実堅であるもの、
これらはみな症と脈とが相い反しており、治療困難である。」


黄帝問曰、春脈如弦。何如而弦。
岐伯対曰、春脈者肝也。東方木也。万物之所以始生也。故其気来、耎弱軽虚而滑、端直以長。故曰弦。反此者病。
帝曰、何如而反。
岐伯曰、其気来実而強、此謂大過。病在外。其気来不実而微、此謂不及。病在中。
帝曰、春脈太過与不及、其病皆何如。
岐伯曰、大過則令人善忘、忽忽眩冒而巓疾。
其不及、則令人胸痛引背、下則両脇胠満。帝曰、善。
夏脈如鈎、何如而鈎。
岐伯曰、夏脈者心也。南方火也。万物之所以盛長也。故其気来盛去衰。故曰鈎。反此者病。
帝曰、何如而反。
岐伯曰、其気来盛去亦盛、此謂太過。病在外。
其気来不盛、去反盛、此謂不及。病在中。
帝曰、夏脈太過与不及、其病皆何如。
岐伯曰、太過則令人身熱而膚痛、為浸淫。其不及、則令人煩心、上見咳唾、下為気泄。帝曰、善。

秋脈如浮。何如而浮。
岐伯曰、秋脈者肺也。西方金也。万物之所以收成也。故其気来、軽虚以浮、来急去散。故曰浮。反此者病。
帝曰、何如而反。
岐伯曰、其気来毛而中央堅、両傍虚、此謂太過。病在外。其気来毛而微、此謂不及。病在中。
帝曰、秋脈太過与不及、其病皆何如。
岐伯曰、太過則令人逆気、而背痛慍慍然。其不及、則令人喘、呼吸少気而咳、上気見血、下聞病音。
帝曰、善。

冬脈如営。何如而営。
岐伯曰、冬脈者腎也。北方水也。万物之所以合蔵也。故其気来、沈以搏。故曰営。反此者病。
帝曰、何如而反。
岐伯曰、其気来如弾石者、此謂太過。病在外。其去如数者、此謂不及。病在中。
帝曰、冬脈太過与不及、其病皆何如。
岐伯曰、太過則令人解[イ亦]、脊脈痛而少気、不欲言。其不及則令人心懸如病飢、[月少]中清、脊中痛、少腹満、小便変。
帝曰、善。

帝曰、四時之序、逆従之変異也。然脾脈独何主。
岐伯曰、脾脈者、土也。孤蔵以潅四傍者也。
帝曰、然則脾善悪、可得見之乎。
岐伯曰、善者不可得見、悪者可見。
帝曰、悪者何如可見。
岐伯曰、其来如水之流者、此謂太過。病在外。如鳥之喙者、此謂不及。病在中。
帝曰、夫子言脾為孤蔵、中央土以潅四傍。其太過与不及、其病皆何如。
岐伯曰、太過則令人四支不挙。其不及則令人九竅不通。名曰重強。
帝瞿然而起、再拝而稽首曰、善。吾得脈之大要。天下至数、五色脈変、揆度奇恒、道在於一。
神転不回、回則不転、乃失其機。至数之要、迫近以微。著之玉版。蔵之蔵府、毎旦読之、名曰玉機。

五蔵受気於其所生、伝之於其所勝。気舍於其所生、死於其所不勝。病之且死、必先伝行、至其所不勝、病乃死。
此言気之逆行也。故死。肝受気於心、伝之於脾。気舍於腎、至肺而死。心受気於脾、伝之於肺。
気舍於肝、至腎而死。脾受気於肺、伝之於腎。気舍於心、至肝而死。
肺受気於腎、伝之於肝。気舍於脾、至心而死。腎受気於肝、伝之於心。気舍於肺、至脾而死。此皆逆死也。
一日一夜五分之。此所以占死生之早暮也。
黄帝曰、五蔵相通、移皆有次。五蔵有病、則各伝其所勝。
不治、法三月、若六月、若三日、若六日、伝五蔵而当死。是順伝所勝之次。
故曰。別於陽者、知病従来、別於陰者、知死生之期。言知至其所困而死。

是故風者、百病之長也。今風寒客於人、使人毫毛畢直、皮膚閉而為熱。
当是之時、可汗而発也。或痺不仁腫痛。当是之時、可湯熨及火灸刺而去之。弗治、病入舍於肺。名曰肺痺、発咳上気。
弗治、肺即伝而行之肝。病名曰肝痺、一名曰厥。脇痛出食。当是之時、可按若刺耳。
弗治、肝伝之脾。病名曰脾風。発癉、腹中熱、煩心出黄。当此之時、可按、可薬、可浴。
弗治、脾伝之腎。病名曰疝瘕。少腹寃熱而痛、出白。一名曰蠱。当此之時、可按、可薬。
弗治、腎伝之心。病筋脈相引而急。病名曰瘈。当此之時、可灸、可薬。
弗治、満十日法当死。腎因伝之心。心即復反伝而行之肺、発寒熱、法当三歳死。此病之次也。然其卒発者、不必治於伝。
或其伝化、有不以次。不以次入者、憂恐悲喜怒、令不得以其次。
故令人有大病矣。因而喜大虚、則腎気乗矣。怒則肝気乗矣。悲則肺気乗矣。恐則脾気乗矣。憂則心気乗矣。此其道也。故病有五。
五五二十五変、及其伝化。伝、乗之名也。

大骨枯槁、大肉陥下、胸中気満、喘息不便、其気動形、期六月死。
真蔵脈見、乃予之期日。大骨枯槁、大肉陥下、胸中気満、喘息不便、内痛引肩項、期一月死。
真蔵見、乃予之期日。大骨枯槁、大肉陥下、胸中気満、喘息不便、内痛引肩項、身熱、脱肉[月囷]、真蔵見、十月之内死。
大骨枯槁、大肉陥下、肩髄内消、動作益衰、真蔵来見、期一歳死。見其真蔵、乃予之期日。
大骨枯槁、大肉陥下、胸中気満、腹内痛、心中不便、肩項身熱、破[月囷]脱肉、目眶陥、真蔵見、目不見人、立死。
其見人者、至其所不勝之時則死。急虚、身中卒至、五蔵絶閉、脈道不通、気不往来。譬於墮溺。不可為期。其脈絶不来、若人一息五六至、其形肉不脱。真蔵雖不見、猶死也。
真肝脈至、中外急、如循刀刃責責然、如按琴瑟弦、色青白不沢、毛折乃死。真心脈至、堅而搏、如循薏苡子累累然、色赤黒不沢、毛折乃死。
真肺脈至、大而虚、如以毛羽中人膚、色白赤不沢、毛折乃死。真腎脈至、搏而絶、如指弾石辟辟然、色黒黄不沢、毛折乃死。
真脾脈至、弱而乍数乍疏、色黄青不沢、毛折乃死。諸真蔵脈見者、皆死不治也。

黄帝曰、見真蔵曰死、何也。
岐伯曰、五蔵者、皆稟気於胃。胃者五蔵之本也。蔵気者、不能自致於手太陰。必因於胃気、乃至於手太陰也。
故五蔵各以其時、自為而至於手太陰也。故邪気勝者、精気衰也。
故病甚者、胃気不能与之倶至於手太陰。故真蔵之気独見、独見者、病勝蔵也。故曰死。
帝曰、善。

黄帝曰、凡治病察其形気色沢、脈之盛衰、病之新故、乃治之、無後其時。
形気相得、謂之可治。色沢以浮、謂之易已。脈従四時、謂之可治。脈弱以滑、是有胃気。
命曰易治。取之以時。形気相失、謂之難治。色夭不沢、謂之難已。脈実以堅、謂之益甚。脈逆四時、為不可治。必察四難、而明告之。
所謂逆四時者、春得肺脈、夏得腎脈、秋得心脈、冬得脾脈、其至皆懸絶沈濇者、命曰逆四時。
未有蔵形、於春夏而脈沈濇、秋冬而脈浮大、名曰逆四時也。
病熱脈静。泄而脈大。脱血而脈実。病在中、脈実堅。病在外、脈不実堅者。皆難治。

黄帝曰、余聞虚実以決死生。願聞其情。
岐伯曰、五実死、五虚死。
帝曰、願聞五実五虚。
岐伯曰、脈盛、皮熱、腹脹、前後不通、悶瞀、此謂五実。脈細、皮寒、気少、泄利前後、飲食不入、此謂五虚。
帝曰、其時有生者何也。
岐伯曰、漿粥入胃、泄注止、則虚者活。身汗得後利、則実者活、此其候也。


参考文献:
『黄帝内経素問 上巻—現代語訳』
『中医基本用語辞典』 東洋学術出版
『臓腑経絡学』 アルテミシア

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